こんにちはMasakunです
本日は言葉の表現について思うことを、語りたいと思います。
皆さんは「難しい言葉(=抽象、具体、概念、観念、意思決定、など漢語的な表現・訳語)」を使うことをどのように考えますか?
このまえ、初対面の方(30代)と話している時
和製漢語を使って話ていたら
「なぜ、君はわざわざそんな難しい言葉を使うんだ。」
「無駄に恰好つけているのか?」
http://world-fusigi.net/archives/8625014.html
と言われたことがあります。それは正直言って、心外はなはだしいものでした笑
関連して、しばしば
「言葉遣いは易しい言葉であるべきだ」
「難しい表現は回避するべきだ」
という意見を聞きますが、それらは常に正しいといえるのでしょうか?
抽象、具体、観念、概念、組織
のような和製漢語は確かに、小学生・中学生にとっては難しいかもしれませんが、漢語的表現は無駄なんでしょうか?
結論から言うと、私はそうは思いません。難しい表現には、ちゃんと意味があると考え、使っています。
もくじ
Ⅰ.難しい言葉遣いに意味があるという理由
要約すると、「難しい言葉」には以下の2つのメリットがあります。
- 端的に表現できる
- 曖昧さを回避できる
1.端的に表現できる
Simple is the Best
といわれるように、コミュニケーションにおいて、シンプルさは効率性という観点からの効用をもたらします。
自分の考えるイメージや観念を、効率的に相手に伝えるためには、シンプルさという要素は必要不可欠であるといえます。
伝えられる側からしても、ものごとを不必要に長く説明されるのは、面倒くさいと思います。
例えば、「誰の目からみてもあきらかでもっともだと思われる立場で」という冗長な説明は、「客観的に」という言葉でシンプルに表現できます。
音を考えても
- ダレノメカラミテモアキラカデモットモダトオモワレルタチバデ
- キャッカンテキ
と約4倍の差異があり、易しい表現にくらべて、難しい表現には多くの意味・概念がこめられているため、端的に表現することができ、コミュニケーションを効率的(ムダがなく)に行うことができます。
ただし、それは相手がその言葉を理解できるだめの教養があるということを前提にしています。
2.曖昧さを回避できる
小学生にもわかるような表現は、その易しさの反面、どうしても曖昧さというものを残してしまいます。
曖昧さとは、その言葉が持つ概念、イメージ、シニフィエが広く、複数の解釈可能性がある状態をいいます。
伝えられる言葉が曖昧であると、メッセージを伝えられるが側は、話者がなにを言いたいのかがわからず、困惑してしまうでしょう。
例えば、ボキャブラリーの少ない人がよく、「アレ」という言葉を使いますが、受け手側としてはなんのことか分かりません。
一方で、もとが西洋哲学から生まれた概念である場合は、複雑な意味をもちます。
複雑であるということは、たくさんの意味要素が内包されているということで、
言葉という記号の中に、意味がぎっしり詰まっているということです。
3.難しい言葉遣いにはメリットがある
結論として、難しいと言われる言葉を使うことには意義があります。
したがって、
「難しい言葉を使ってるやつは、自分を良く見せようとしている」
という解釈・決めつけは、荒唐無稽なレッテル貼りであると考えます。
しかしながら、難しい表現が常に正しいかといえばそうではありません。
Ⅱ.「難しい言葉」を使うべきではないとき
難しい言葉をつかうべきではないとき
というのは、相手が明らかにその言葉理解できなさそうなときです。
これは、相手が小学生、中学生であれば見た目である程度判断でき、易しい表現で噛み砕いて説明するべきであると考えることができますが。
相手がスーツを着た大人であった場合はどうでしょうか
一目見て、相手の哲学・科学の教養レベルを量ることは難しいでしょう。
なので、この場合はある程度会話してからレベルを決めましょう。
Ⅲ.本当に上手い説明は「喩える」こと
本当に上手な説明というのは、喩えることではないかと思います。
相対性理論を説明するのであれば、
「同じ1秒でもストーブの上に座る1秒間と恋人と過ごす1秒間では全然体感時間が違う」
と表現してはどうでしょう?
これは確かに誤解を招く表現ではありますが、初めて相対性理論に触れる人にとっては、概観をつかむことができるという点で効果的に伝わるのではないかと思います。
Ⅳ.まとめ
まとめとしては難しい表現には
- 端的に表現できる点
- 誤解なく、的確な表現ができるという点
において「小学生でもわかるやさしいことばづかい」に優れており、難しい言葉遣いは何もかっこつけのためにあるわけではない、ということがいえます。
しかしながら、相手がそれを理解できない場合は、そもそも言いたいことを伝えることが出来ないわけです。したがって、難しい言葉を使うべきか、易しい言葉を使うべきかは状況によりけり。となります。
私は機械・建設・鉄鋼・IT・宇宙などの産業で技術移転に関わってきました。英語ではFormやMaterialなど非常に基本的な言葉は、産業が異なってもFormやMaterialという同じ言葉を使います。スペイン語でも同じです。
日本では学問や産業が異なると、FormやMaterialのような言葉さえも、わざわざ難しい訳語をひねり出して使いますが、その理由がどうしても理解できません。教えて下さい。
コメントありがとうございます。因みにどのような訳語ですか?
関さんのコメントを読んで思いついたのですが(思いついただけですが)、欧米の学問を受け入れてゆく中で各界の連携がとれていなかったから、それぞれ訳語が違うのではないでしょうか。なぜわけのわからない訳しかたをするのかは僕には思いつきませんでした。
読んで改めて思いました。
効率的に話すために一般教育では使われないような言葉を使う、というのはやはり無駄かと。
一番効率のいい話し方は、簡単な言葉の中から、いかに短く伝えられる言葉を探せるかではないでしょうか。
客観的の説明、確かにそうだと思います
ただ、誰でも、と表現すれば
済むのではないでしょうか?
客観的に見て
誰が見ても
この短縮方法は作者様は
どうお考えでしょうか?