はじめに
クリスマスの夜にトナカイに乗って夜空を駆け、世界中の子供にプレゼントを配る「サンタさん」。私が信じられなくなったのは小学3年生の頃です。
みなさんが昔は信じていた「サンタさん」も、「現場」を見てしまったり、「科学的な知見」が増えるにすれ、だんだん信じられなくなってしまったという経験があるのではないでしょうか?
「サンタさんはいるのか」というアジェンダが小学生の間で脚光を浴びていたことは懐かしいものです。
同じような現象が(F欄ではない)大学生に見られます。サンタさんではなく、死後の世界を信じることができなくなるのです。死後の世界に関しては、サンタさんのように「みんなの心の中にいる」といった気休めが通用しません。そんな理性人を悩ます症状こそタナトフォビアです。
大学に入り、論理実証主義にもとづく科学や哲学にのめりこむにつれて、人は「死後の世界」という主題に対しても批判的(Critical、×否定)・論理的に考えようとするでしょう。この哲学的な思惟の結果としてタナトになってしまうのです。
「サンタさん」同様に、今までなんとなく信じていた「希望ある幸せな死後の世界(天国)」という観念が打ち砕かれ、生きて活動することにもニヒル(虚無)になってしまう、そんな人たちへ向けた記事です。(自分含む)
タナトフォビアとは?
タナトフォビアとはTanato(死)Phobia(恐怖症)ことを指す言葉です。
一言で言ってしまえば「死ぬのが怖い」のです。
あなたが「死後の世界」に対して懐疑的であらのであれば、あなたはタナトです。
なぜタナトフォビアになるのか?
なぜタナトフォビアに陥ってしまうのかというと、彼らは、「死後の世界」に言及した宗教を信じている人のように「死後にはハッピーな世界がある♪」という期待・を無条件に信じることができないからです。死後にある意識の存在、そしてその意識が幸福を享受できることなど到底信じられないということです。
タナトフォビアになる人は唯物論者(Materialist)であるため科学的な根拠のある事実しか信頼しません
- 宗教などでしはましはま「魂」とよばれている「自意識」や「思考する自分」は脳にあるニューロンや神経細胞の電気信号(つまり”物=Material”)の働きによって生じるものである
- 肉体死→脳死の後、自分という意識は、その発生源である脳が消滅することによりなくなる
したがって、死後=無の世界であると考えています。
意識=脳の産物であると思う理由
この僕も自分という意識は脳によって規定されているもので、死後の世界は無だろうと考えています。
その証拠の一つとして、熱中症で脳にちょっとしたダメージを負っただけで(^q^)になってしまう事例を挙げたいと思います
とても気の毒ですね、こんなかわいくて明るい子が・・・。
さらに、死後=無になってしまうのであれば、たとえ現世でどんなに偉業を成し遂げたとしても、それを観測したり認識する自分がいないため、あらゆる活動に対してモチベーションを失ってしまうことも特徴の1つとしてあげられます。
タナトフォビアになりがちな人
また、タナトフォビアになる人の特徴として科学的な教養が深く、思慮も深く論理的である、よく「頭がいい人」と言われる人に多いということもあげられます。
これは宗教信奉者を批判する訳ではありません。しかし、もし脳に関する科学的な知がなかったりそもそも余り物事について深く論理的に考えない楽天家であれば、簡単に天国や神様などの死後の世界に対するハッピーな思いを盲信することができます。したがって、「頭の悪い人」はタナトフォビアにはなりにくい傾向にあることは事実でしょう。
ちなみにですが、この記事を書いているボクは、大学時代にリチャード・ドーキンスの利己的な遺伝子を読んでタナトフォビアになりました。
克服できるの?
死後=無であるとしても、人生に意義を見いだすことができるのでしょうか?
スティーブ・ジョブズのスピーチ
まずは、スティーブ・ジョブズのこのスピーチをご覧になってください
この彼の演説は3つのセクションに分かれており、その3つ目で「死ぬこと」について語っています。スティーブ・ジョブズ彼自身は、キリスト教信者の多いアメリカ人ではありますが、唯物論や進化論など科学的・論理的な知識に対する教養・理解があります。つまり根本的には私たちと一緒で、死後=無だと考えているのでしょう。
そんな彼なりの死後無になるという恐怖に対する解決法を、進化論という科学的に理にかなった観点から語っているので、少しはタナトフォビアを和らげることができるのではと思います。
【K流タナトフォビアの克服法】
自分が死んで無になること←これを受け入れつつ、日頃の活動に意義を見出す方法個体としての使命を、以下の様に考える
人類⇒個体という関係性を
個体⇒細胞のように考えるつまり自分の体にある細胞が「自分」というもののために常に生き死にしているように、自分も人類という名の個体の細胞であると考える。
ひとつ細胞と違う点として、自己分裂ではなく、セックスによって自らのコピーを残すこと、さらにコピーした異なる個体の世話面倒(養育)により、コピーのコピー(孫)を作成することに優位な環境設定の2つを使命として与えられているので、
社会的地位
経済的余裕の獲得を目指すことに、意義が生じる
これで俺はタナトフォビアが10%弱まった
終わり
thank you for reading ;D
たくさんの意見・感想を吸収したいので、良かったら下のコメント欄からコメントよろしくお願いします
死後の世界については肯定も否定も出来ないと思います。逆に言えば肯定も否定もできると思います
■NHKモーガン・フリーマン時空を超えて【第2回 死後の世界はあるのか?】
https://www.youtube.com/watch?v=CbsBZguL9CM
人間の意識について語られていて死後の世界を肯定する仮説の量子脳理論から死後の世界を否定する統合情報理論まで紹介されどちらも決着はついてません。
■死んだらどうなる? 死後の世界を医師と科学者たちが徹底検証!
http://www.j-cast.com/bookwatch/2016/09/08277427.html
臨死体験の事例で脳は機能していないのに自分の横たわっている姿を上から見て、その病室などに誰々が来てくれた、などは脳が「機能している」のでわかったとしましょう。
では遠く離れたところで誰々が何をしていた、と言う証言はどう説明したらよいでしょう?
これは脳がすべてではないことを示していますね。
有名なものでは「テニスシューズ」の話があります
まあ確かに、否定はできませんね。ただ、ないことが証明できないというだけなので、死後の世界があるかもしれないという命題は「あと5秒後に隕石が落ちてみんな死ぬかもしれない」くらいの意味しかないんじゃないでしょうか。
挙げていただいたURLについてのお話も、全て科学で説明ができてしまう余地があるので・・・
タナトフォビアに囚われて死の恐怖に毎日激しく怯えてばかりいます 死ぬ瞬間の苦痛を想像するだけで たまらなく苦しくて耐えられない とても怖くてやりきれない 私は「蜘蛛の糸」の愚かで悲しく切ないカンダタにしか過ぎない
なるほど、死ぬ瞬間の苦痛ですか…
確かに死に際して、どのように苦痛を認識し、意識というものが消滅するのかを考えると恐ろしいものです。。。
一時的な無だったら、別に怖くはないんですよ。それはすなわち睡眠と全く同じのようなものなのですから。
もしかして、masakunさんは生きる=”無じゃない”、死ぬ=”無だ”という極端な考えに陥ったりはしていませんか?何かについて無知で、偏見を持ったりしていないでしょうか?自分の汚さ、卑怯さを潔く認められているでしょうか?善悪のような考え方で全てを受け入れようとして、損したりはしていませんか?物事をうまく分解して向き合う習慣をつけ、自分のために勉強して調べていくようにした方が死後無になる恐怖も緩和されるのではないでしょうか。
僕はそれで完全といっていいほど、死の恐怖を克服しました。
コメントありがとうございます。貴方の仰る偏見、無知とは具体的に何でしょうか?汚さ、卑屈さについても例でいいのでお願いします。
因みに、私は「死後の意識世界は存在する」という命題は「明日巨大隕石が頭に落ちる」という命題位信憑性に薄いものだと考えております。それは、神や天国などのキリスト教的な概念の一切の証拠が科学(仮説、実験、観察、論理実証)によって否定されてきたためです。しかし可能性自体は否定しておりません。明日隕石が落ちる可能性を否定できないのと同様です。「死後の世界はある」という命題は、所詮「明日隕石」程度の命題であり、蓋然性に乏しいという結論に至ります。
その明日というものも、人間が勝手に決めた概念ですよね?
隕石がいつか落ちるというそのいつかの範囲(たとえば一年後、百年後、千年後…)を広げていけば、あなたが無にならない可能性も高くなるのではありませんか。
ちなみに時間は人が決めたものであり、一直線に進むものでもなく、あくまで物事の関係性を説明するための最低限のものさしに過ぎません。
ちなみに神や超常現象に関しては
科学は否定もしていませんし、肯定もしていません。形而上学的なものから距離を置いて、学者が主観を織り交ぜて様々な見解を出しているだけです。無神論的な言葉はありますけど、それにも背景といった問題があり、それだけが真実とは限りませんよ
もしかして死んだら無になるという事を真実だと受け入れるべきだと考えていますか
ちなみに神が存在するかというより、絶対的なものは存在しないという事実が証明というか考え方はあります。
神という概念が曖昧な以上、あるかどうかも分かりませんが、
結局自分が恐怖を感じないように、価値に踊らされる事なく、好きなもの、やりたい事を追求していく方向で生きていくというのはどうでしょうか?別に好きなもの、やりたい事というのは高い目標を掲げても良いですけど、掲げる必要もありませんし、ごくごく生活での出来事とか小さな事でも良いと思うのです。
明日じゃなくても隕石がいつ落ちてくるかということすら証明出来ないじゃないですか。
隕石がいつか落ちてくるというように死後の世界が証明される確率だって隕石が落ちてくる確率と同じやと思います。
理論物理学者だって証明しようと踏み込んでるぐらいですから。
上の人があげた例が科学で説明されてしまう余地って言ったってあると証明されたとしてもそれが科学じゃなくなるわけではないでしょう。
量子論を勉強してみればいいのではないでしょうか。
で、最先端量子物理学者の論文を(数理論上からも)理解できるパーセンテージに比例して「死後の無」という恐怖は薄まっていくと思います。
ソースは自分。
タナトフォビアは科学的パラダイム上でしか「あるかないか」を信用できない人が多いので、結局は科学的アプローチで探るしかないでしょう。
所謂脳量子論ですか?
皆うるせえな。本当に死んだら無になると思うよ。事故に遭った後、痛みも感じなかったし何も覚えてない。実際何度も同じところを切ってもう少し詳しく首の太い血管を切る寸前、、何もかも忘れて私という存在は何だったのか?全て忘れて無になるんだ、という恐怖がわいたよ。幸い神経を切って血管は見えるぎりぎりのところ、それって守護霊のおかげかなと思うけど、矛盾してるでしょ。虫の知らせや人が死ね勘はなんか持ち合わせてるけど、まだ死ねべきではない人には死がこわすぎるんじゃん。だってやっぱ無になった後生き返ってるからさ。じいさんは自殺したけど、無になるより苦痛な環境が方が嫌だったのかな。遺体は彼が死ねことの悲しみと無念を感じさせたよ。死ねのが怖くていいじゃん。死が怖くて死にたいほど苦しい?私は自分の存在意義が見出だせて果たせるまで生きる。まだ死ねのが怖くて。死んだら違う次元に行くんじゃないの?ブラックホールの中って矛盾してて、そこに違う次元が存在したらどう?まーわからなければ精神病院でいろんな人を見たり、ご老人をよく観察したら?老人ホームね。 ちなみに私は外出すると人に危害を与えるか、家に閉じこもってればいつ死にたいほどの苦痛が襲ってくるかの毎日だよ。何度もオーバードーズしたけど、搬送されて生き延びた。あのまま死なせてくはれれば良かったのに、と思う時があるけど今自殺すれば無になると思う。意識を失いかけて眠るように死ぬのと、健全な意識の中じわじわ死ぬのと、怖さが違うだけで、水素より小さいものが脳細胞をすり抜けられるから、それでも意識や感情や本能がとどまつているのはあらゆる動物の流れるような運命的進化系は違う次元にあったりして。誰が何を信じて、幸せになったり、怖くなったり、正解求めて何になるのかなー。死が怖い人はまだやるべきことがあるからだよ。それだけ優秀な遺伝子を持ってる、残さなきゃいけないと本能が訴えてるんだよ。満足したら死ねのも怖くなくなると思うよ。逆に死を美化して天国がどーの言ってる人はおめでたいよ。生きていられるうちに何かしなよ。それこそ死ぬ瞬間に、何しに産まれて来て自分は何者で?どうしよう、死ぬ、と恐怖でいっぱいになるから。
でも人間は弱い生き物
もしないと仮定して生きていれば刹那的な生き方になりがちなのは間違いないんじゃないかな
だって神罰を恐れないんだからね
そう考えたら万が一にもあった時のこと考えて堅実に生きたほうがいいんじゃないかな?
まぁもっともそういう問題云々抜きにして自分は何故か生まれた時から死後の世界は当たり前にあるような気がしてたから信じる理由は違うけどね。
だってもし皆等しく無に還るなら個の意識に意味なんてなくなっちゃうよ笑とゆうより意識が各々個である必要がないじゃない?まぁそんな感じかなぁ、、
私も様々な文献を調べましたが、死後の世界というのは信じにくいものだと感じます。ただし、
①臨死体験中に存在を知らない血縁者、または生きているはずの知り合いに会い、それらはその時点で亡くなっていたことがわかる
②先天性全盲の人が臨死体験をした際、明確なビジョンを伴った
③臨死体験中に体外離脱し、離れたところの視覚的な情報を獲得、のちに事実との一致が確認される
④前世の記憶をもつ幼児のケースがある程度確認されている
これらのケースが科学的に説明されるまでは、まだ希望的な観測も出来るのかと思います。
ちなみに私は、①の存在を知らない血縁者はおそらく遺伝記憶したものではないかと考えています。
また、多くの臨死体験に伴う神秘体験がマジックマッシュルームで体験できるあたり、大抵の臨死体験は無意味なものだと思っています。
最初の女の子似対しての書き方なんだよ
慶応大学に連絡しときます
自分も時々深く死の恐怖を感じます。
死の恐怖って、死後の世界というものが、存在せず、死んだら無になる。というのが、まず、前提としてあって
、死んだら自己の意識がその瞬間に消滅して無くなってしまうと考え、ならなんで生まれて来たのかという、死に向かう恐怖が激しく沸き起こるのです。
まぁ、宗教なり、死後の世界があると信じてる人は天国なり地獄への行き先に対する不安はあっても、自己意識が消滅してしまう死事態への恐怖は感じないと思います。
(^q^)
私は小学六年生なんですけど、死に対しての恐怖は去年から始まりました。お婆ちゃんが亡くなったときです。医療系の番組や、戦争などの番組を見ていると息が苦しくなります。「なんで生まれてきたのか」「なぜ人は死という運命に向かって理不尽な世の中をもがき続けるのか」「自分が死んだあとの世界はどうなのか」などを深く考えてしまい、涙も出てきます。火葬されるのが怖い。永遠に生きたくもないけど死にたくもない。今生きているこの瞬間がとても不思議で、いつくるかわからない巨大災害がすごく怖いです。そして、死=無になるのが怖いというところから、寝ていた時の記憶がないことに凄く恐怖を感じ、睡眠恐怖症にもなりつつあります。
年を取れば、死に対する恐怖が薄れていくらしいですが、若いうちに余命宣告を受ける病気や事故にあってしまったらどうしよう。と日々考えています。私にタナトフォビアを克服することはできないと思いますが、死んだら私がタナトであったと言う事も忘れるだろうし、今ある命を後悔のないように生きてやろうと決めました。
私も中学3年生の頃部活を引退した後ぐらいにとてもひどいタナトフォビアになったことがあります。
寝ても覚めてもずっと死んだら無になるんだと考えてしまい恐怖にずっと取りつかれて貧乏ゆすりもすごくしていたのを覚えています。
受験勉強が忙しくなった頃には薄まっていました。
大人になった今でも時々ふと夜中に目を覚ました時や電車に乗っている時などに発作的な感覚で死後の無の恐怖について考えてしまうことがあります。
その時の不安感はものすごいもので動悸も激しくなってしまうのですが少し時間が経つと治まります。
そもそも死後とは生まれる前の状態に戻ることなのであって生きている時間こそが異常なものなのかと考えることもあります。
僕は10歳の頃から、夜になると死にたくないと泣き喚く子供でした。
その頃から無宗教で神、死後の世界、生まれ変わり、霊、すべて存在しない死んだら無という考えです。
20歳の今も毎晩死について考え怖くなり眠れません。そういう不安を忘れるために宗教ができたのだと考え、キリスト教会や寺などに行きましたがいずれも非科学的に感じ入信できず。
心療内科に行っても取り合ってもらえませんでした。
やる気が起きない頑張ってもどうせ死んで徒になる。死にたくない。怖い。永遠に生きられるなら生きたい。
死後の世界があるというお考えの方は微生物や植物、脳の電気信号に似たコンピュータにも死後の世界があるとお考えなのでしょうか。
今恐怖に煽られて慰めにググってヒットしたのを眺めてました。
かれこれ20年位悩まされてますが個人的に、死について割かし合理的な側面を持つ解を持っても恐怖が納められないので、もうひとつの手段として、「今、夜/空腹/ストレス・タスクを抱えてるか考え、鬱の傾向がある」って思うと確かに毎回思い浮かべるの夜だわってなってかなり和らぐのでおすすめです。
スノビズムと恐怖を商売にするのは楽しいんだろうな
唯物論つーより一元論だろ
そもそも意識の発生だって未だに科学的説明は出来てないから科学的に言うならば断言するべきじゃないな
科学風と認めるなら結構
現代で「転生」をモチーフにした作品に人気が出るのも、人の頭が良くなってきているという理由があるのかなぁと思ったりします。創作だとわかっているけど、恐怖を和らげたい、ある意味薬でもあるのではないでしょうか。
自分は小学校2年生の時に天国と地獄に関する本を読んで、深読みしすぎてタナトフォビアになり、担任の先生(新任の女性)に相談したところ泣かれてしまった記憶があります。
説明が難しいのですが、死の痛みが怖いのではなくて、自意識の切断が起きた後の主観的な世界観がどうなるのかが不安で仕方なかったのです。胡蝶の夢的な要素もあったのかもしれません。自意識が途切れた後どうなるのか、時間の概念もなくずっと暗闇に閉ざされるのか、はたまた何もかも忘れてまた目覚めるのか…。それとも自分がいま生きている世界が本物なのか虚構なのか、これすらも夢なのか…。
「転生」にあこがれるのも無理はありませんね。